2025/08/13 14:25

その一瞬を待っていた。

富士は淡く染まりはじめ、湖面に姿を映しだす。

風はなく、水面は白鳥の波紋だけが広がっていた。


凍えるような大気。

指先がかじかむのも忘れカメラを構えた。

静けさが心の奥まで沁みわたる。

やがて背後から差し込む一条の光が頂を薄紅色に染め、湖面に映し出す。

私は夢中でシャッターを切り、目の前の世界と一体になった。




富士がもたらした「静中の動」


山中湖は、言わずと知れた富士を望む湖畔。

訪れたのは三月初めだった。

まだ暗いうちからスポットに陣取り、指先が凍り付かないよう注意しながらひたすら待っていた。

世界はまだ淡い藍色の帳に包まれ、夜明けを待つ時間が流れていたのを憶えている。

吐く息の白さとともに、心も少しずつ目覚めていった。


無の状態で写真を撮りながらも、別の意識で感じていたものがある。

平凡かも知れないが、浮かんだのは「静寂」という言葉だった。

それは単なる静けさではなく、

外界と内面がともに澄み渡った完全な安らぎとでも言おうか。

富士は何も語らず、ただそこに在り続ける。

その姿は、見る者の心を穏やかに鎮めていく。

静の中に潜む動き。

禅のいう「静中の動」というものなのかもしれない。




霊峰富士は、永遠に「霊峰」であり続けられるのか


古来より、日本人にとって富士は信仰と美の象徴だった。

その姿は人々の祈りや理想を映しだす。

湖面に映る富士は、現実の山と同時に、心の奥に眠るもうひとつの峯を映し出していた。


けれど今、富士は「信仰と美の象徴」になっているだろうか。

国内外から訪れる登山客のなかには、心ない振る舞いをする者も少なくない。

心の奥に存在する峯が湖面に映されるとすれば、それはどんな姿なのだろう。


やがて陽が昇り、光は山を包み、色は淡く溶けていった。

急に震えが来て、知らぬ間にすっかり体が冷え切っていることに気づいた。


夢のようだった、あの一瞬。

神々しいとしか言いようがない霊峰の姿が、

いつまでも残されていくことを願ってやまない。


胸の奥には清冽な空気と湖に映る富士の記憶が余韻となって息づいていた。