2025/08/16 16:02
白みはじめた空と海が境界を忘れたように溶け合っていた。
四月、桜花が山を淡く飾る頃。
伊豆・熱川高原の丘上に立つホテルのテラスから、太平洋と伊豆諸島を見渡す。
夜が明けるまでのわずかな時間、世界は静かに変容を続けていた。
この日、手にしていたのは1935年に誕生したライカのオールドレンズ「タンバール」。
ギリシャ語で「不明瞭」を意味するその名の通り、
輪郭をやさしく解きほぐすソフトフォーカスの描写が特徴だ。
空に浮かんだ雲は紫がかり、その下には橙の光がにじむ。
海は淡い藤色に染まり、水平線付近には二隻の船が点のように漂う。
左手には島影が静かに伸び、まるで一筆書きで描かれた水墨の線のようだった。
あらゆる境界が溶け合った世界に、自分自身が溶けてゆくような感覚を抱きながら、
その静かで、やさしい世界に浸っていた。
タンバール越しに望む光景は、現代レンズのような
「はっきり」「くっきり」とした息苦しく、窮屈とは対極の世界。
余白を宿し、奥行きが生まれる。
境目が曖昧になると、空と海、雲と島、自分と世界の境界がひとつになってゆく。
完全さを求める西洋的価値観ではなく、不完全の中に美を見いだす日本人の感性が、静かに目を覚ます。
ふと自分のからだに意識を戻すと、自然の呼吸の中に還っていくような安らぎで満ちていることに気づいた。
人はいつから、「明確」であること、「わかりやすさ」を唯一の価値と信じるようになったのだろうか。
淡く漂うような美しさは、測れず、再現することはできない。
だからこそ、その一瞬を写し取り、胸の奥に静かな余韻として刻んでおきたいのだ。
あの暁の空と海は、今も私の中でやわらかな輪郭のまま息づいている。