2025/08/20 11:44
森を抜けると、轟く水音が胸の奥まで響き渡った。
梅雨明け間近、初めて蓼科高原を訪れた私は、
あらかじめチェックしていたスポットの蓼科大滝へと車を走らせた。
滝は森を抜けた向こうにある。
駐車場に車を止めて、あとはひたすら歩くのだ。
遊歩道は苔むす岩と連なる木々から張り出した根っこに支配されていた。
足元が危なっかしい。
時折歩みを止めて、あたりを撮影しながら進んでゆく。
次第に水音が大きくなり、滝が近いことを知らされる。
前日の雨で水量を増した滝は白い奔流となり姿を現した。
生い茂る葉と苔むす岩。
豊かな水に養われ、生命力に満ちた緑は深く鮮やかだ。
不意に木漏れ日が差し込んで、滝壺の水面が翡翠色に輝いた。
緑と翡翠、その瑞々しいコントラストに目を奪われ、心が震えた。
なんという美しさだろう。
水飛沫は光の粒子となり、宝石のように瞬いている。
緑の香り、ひんやりとした風、全身を震わせる水音。
そのすべてが重なり合い、深い残像として心に刻まれていった。
滝の前に立つと、深い浄化が訪れる。
轟音は祓いとなり、心身を清めてゆく。
激しさと心地よさ——相反するものが調和の中で息づいている。
海の広がりとも違う、森に抱かれた清らかさが、からだの奥に沁み渡ってゆく。
この大滝は、森とともにどれほどの時を刻んできたのだろうか。
周囲に満ちる気配は、縄文の記憶を今に伝えるかのようだ。
太古の人々もまた、同じ流れを仰ぎ、同じ水音を聴き、同じ光を浴びていたのではないか。
時が溶け合い、古代に足を踏み入れたかのような錯覚に包まれた。
滝と向き合うと、なぜこうも心が洗われるのだろう。
水が記憶を宿し、私たちの細胞の意識と共鳴するからだろうか。
森と水の営みは次元を超えて流れ続け、その中で私たちは生かされている。
滝壺から吹き抜ける風はいまも魂の記憶として、静かな余韻を奏でている。
それは縄文から続く「水の記憶」の声でもあるのかもしれない。